死にたいと言う感情
※写真は神経科学者アントニオ・ダマシオ教授の考案したダマシオの木です。
感情とは自然に湧いてくるもの、
その良し悪しは考えず否定せず
素直に受け入れるのがよいらしい。
感情とは
人が自動運転するために必要なセンサーなのだと、それを誤魔化してはいけない。
とは言え、自然に湧き上がってくる
死にたい。消えたい。楽になりたい。
と言う感情をそのまま周りに伝えたり、
自分の中に溜め込むのは良くないと私は思う。
なぜなら、
死とは取り返しのつかないこと
であるからだ。やり直せない。
手を失ったり、目を失ったり、聴力を失ったり、足を失ったり、大切な宝物を失ったり、大切な人を失ったり、、それら、取り返しのつかない現象が、全て同時に自分に降りかかってくる。それが死だと私は思う。
ただ、ゲームの死は違う。
死=ミス
やり直しを与えられることがほとんど。
しかもそれを高速に繰り返えせる。
取り返しが付かないのは、
失ったプレイ時間くらいである。
この影響か定かではないが気軽に
死にたい。死んでしまえ。
って言う人たちもいる。言葉の重みを考えずに、、、
※言葉は行動のエネルギー源だと言うのにまったくもう、プンプン!
自分の身近に自殺をした知人を持ってる人が
このような言葉を聞いた時、
その感情は想像できるだろうか?
恐らく、どうにかしなきゃってパニックになってしまう。
気軽に死について発言できるだろうか?
私は申し訳ないと思う。
それでもやはり
死にたい
と言う感情は自然と湧いてくる。
死にたいと考えた時を振り返ってみると、
私の場合
辛いことに遭遇してこの場から逃げたい
自分が許せなくて殺してしまいたい
というときに、発生してると思った。
人間社会は理性的であることが求められ無責任に逃げることを許されない。
本当はただ逃げたいだけなのに、
理性がそれを許さず出口を失った感情に対して、強制的な逃避がアイディアとして生まれ
死にたい
になるのかなと思った。
ほとんどの人は死にたいと思っても
踏みとどまるだろう。本能的、生命的には死にたくないからだ。
理性1割 本能9割
のエネルギー配分らしい。
しかし、落ち込み続けて鬱状態になってしまうと話が変わってくる。
死にたいと言う感情に従い、死ぬ方法を具体的に模索し始める
鬱状態とは、頑張りすぎてエネルギー的に枯渇しきっている。何が起こるかわからない。
そんな状態に、死にたいと言う感情を持ってるのはとても危険だ。
ここで、素直になってみよう。理性的なこと。社会の一員であることを忘れて、死にたいと言う感情を振り返ってみよう。
逃げたい。
ただこれだけだ。この世から逃げたいのではない。世の中にある辛い出来事から逃げたいのだ。
動物のほとんどは、死にたいと思う前に逃げる。逃げて逃げっきって安心状態になる。
もしくは、脅威に攻撃を仕掛けて辛いことを消滅させて、安心状態になる。
これを真似れば、ストレスは溜まりにくい。
我々人間は動物を見習うべきだ。
私は死にたいと思った時は
逃げたい。攻撃したい。
に変換しようと思う。そして、死にたいが自然に発生しないようになれたら理想だなーと思う。
まあ、人間だから、常に逃げれるわけでも、攻撃できるわけでもない。でも、できる時も探せばきっとあるはずだ。
それを見つけてこの感情を解消していきたい。
決して、死にたいと思ったから死んでみる。
と言う形で解消しないために。
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